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ベアテさんについて講演──習志野市9条の会連絡会

2013.06.17.21:43

DSCF2043アップ
戦後の新憲法制定に関わり、24条(両性の平等)を起草したベアテ・ゴードンさんについて昆野美和子さん(青年劇場俳優)が講演しました。昆野美和子さんはベアテさんを主人公にしたお芝居「真珠の首飾り」に関わり、ベアテさんといっしょに全国を回って講演会や懇談会を開き、この舞台の全国上演を組織しました。
ベアテさんは日本国憲法擁護のために精力的に活動し、それは彼女の臨終の直前まで続きました。その様子を述べた娘のニコル・ゴードンさんのメッセージが昆野さんによって朗読されて、おおきな感動を呼びました。

DSCF2041会場


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ニコル・ゴードンさんからのメッセージ

2013.06.17.19:45

 ニコル・ゴードンさんからのメッセージ

 『ベアテさんの志を受け継ぐ会』で私の気持ちを伝えられる機会をいただき、ありがとうございます。死の床で母が何より望んだことは、今の困難な状況の中で憲法を守ろうとする日本の人々を励ます事でした。

 母は日本国憲法にいろいろな形で貢献しました。
 第一に、男女平等と、人権、そして学問の自由の草稿を書きました。
 第二に、母が焼け跡の東京で各国の憲法を集め、草稿を書くスタッフ皆がそれらを参考にすることで、アメリカ憲法を土台にしない憲法草稿が作られました。
 第三に、日本語が流暢な母は日本政府とアメリカ側が憲法の最終稿を交渉する席上に通訳として参加しました。
 第四に、憲法の制作過程が秘密でなくなってからは、母は飽く事なく日本国憲法を擁護し、その努力は死の直前まで続きました。
 最後に、世界中の新聞やインターネットが母の死を報道したことで、さらに多くの人々が日本国憲法の歴史と内容、そして私たちが変えずに守りたいと思う条項の重要性について学びました。

 私はいま58歳で、約40年の経験がある弁護士です。しかし、1946年の母の仕事が私に振り当てられても、母のような素晴らしい仕事はできなかったと思います。母は法律の学位以上の大切なものを持っていました。それは日本の言語、文化、人びとへの、そこで育った者にしかわかり得ない深い理解と愛情です。日本に必要だと思うことを感じ取り、正確に表現する感性です。

 私の祖父、レオ・シロタは、戦前の日本で人々が西洋音楽を学ぶ事に大きく貢献したピアニストでした。その娘、ベアテの戦後50年の仕事は日本とアジアの芸術、特に舞台芸術をアメリカに紹介することでした。国籍に縛られない国際人である母はどんな国のどんな種類の芸術でも、本もので最高だと思えるものはそのすべてを敬愛しました。アジア協会と日本協会のプロデューサーとしてアジアからアーティストを招き、アメリカ各地での公演を企画、主催しました。アメリカでは多くの人たちが、母の制作した舞台を見てアジアの文化と芸術を知り、深く影響を受けました。いろいろな国の人が互いを深く知りあうことで、平和を求め続ける文化が生まれるというのが母の信条でした。

 母の最後についてお話しします。
 母は死の1年ほど前から膵臓がんを患っていましたが、親しい友人にも話しませんでした。昨年8月に93歳で亡くなった父を看病している間、母は気丈でした。しかし父を看取ってからは目にみえて弱っていきました。
                                   ′
 12月の初め、朝日新聞から日本の憲法についての取材依頼がありました。ベアテは憲法を変えたいという動きが日本にあることに敏感でした。そして自分が死につつある事を自覚していました。母はこの時点で誰とも会わず、電話で話す事すらありませんでしたが、日本の憲法を守るために最後にもう一度と、このインタビューを受ける事にしたのです。弱りすぎて自分で答えられない時のために、質問への答えを口述で私に書き取らせました。その翌朝母がベッドで原稿を推敲しているのを見て、日々弱まっていた母にこんな気力と思考力が残っていたことに私は驚きました。
 インタビューが予定された火曜日の朝、私が訪ねると、何日も寝たきりだった母が自分で着替えて、きちんとソファーに座り、電話を待っていました。しかし残念な事にこれは間違いで、実際のインタビューは2日後だったのです。恐れていた通り、木曜日には母はもう起き上がれませんでした。インタビューは午後の約束でしたが、母は朝のうちに新聞社に電話してくれるよう、私に頼みました。体力が落ちて話せなくなるのでは、という危倶からでした。母は最後の力を振り絞ってこのインタビューに臨んだのです。

 そして10日後、12月30日に母は自宅で亡くなりました。彼女の最後の仕事はこうして終わりました。

 しかしそこからまた始まったことがあります。母の死の報道は、母のキャリアと日本国憲法について、多くを雄弁に伝えました。芸術交流の仕事と、憲法と女性の権利への母の貢献が初めて一緒に語られる中で、母の一生懸命さやコスモポリタンとしての信条が浮き彫りになり、思いがけない反響が世界中から届きました。日本国内だけでも100以上もの記事が各地の新聞に載り、母の生涯の仕事と最後の力をふりしぼって日本の憲法を支持した事を伝えました。

 この3月、束京での偲ぶ会に出席するために私は日本を訪れました。母なしに“母の国”にいるのは悲しいことでした。しかし母が生前、日本で200回も講演したと聞いて、母の、また母を支えて下さった方たちの努力に今更ながら打たれました。私は日本にいた2週間で、母がなぜ日本をあんなに何度も訪れたのか、初めて分かった気がします。東京、京都、広島とどこに行ってもたくさんの方々が私に向かって母への感謝を語りました。各地で偲ぶ会が開かれ、皆さまが母の思い出を語って下さる事で、母の願いがさらに広く、深く、また新たに多くの人に届いていると私には感じられます。

 日本の皆さんに母を偲ぶこととして「九条の会」への寄付をお願いしたことについて、九条の会の小森さんは「ご意向を伺った時、新年を迎える最初の光が、日本憲法を守ろうとする人々がこれから歩く道を照らしてくれるようでした」と語りました。それを聞いたとき、私は本当に嬉しく思いました。

 4月28日、ニューヨークのアジア協会と日本協会の共同主催で、母を偲ぶ会が行われました。3ヶ月の準備を要した、昼夜2部で8時間にわたるこの会は、ウェブで世界に生中継されました。伝統芸能から現代アートまで、様々な国からきたダンサー、ミュージシャンなどが公演し、母に感謝しました。主催団体の会長たちはベアテの才能とユーモア、強い意志が感じられるエピソードを披露しました。最初のヒスパニック系で、女性としては3人目の最高裁判事ソニア・ソトマイヨールは、「ベアテは日本人の心を持っているアメリカ人だ」と語り、アメリカの憲法にはまだ女性の権利が書かれていない事を指摘しました。日本国意法の9条、14条、24条の条文が紹介され、多くの人が母が誇りにしていた日本の憲法について学んだのです。
 最後に演劇人である弟は舞台に立ち、こう母に大声で呼びかけました。「人々があなたの努力に声援を送っている。ブラボー ベアテ! ブラボー ベアテ!」参加者はそれに応えて総立ちの拍手を送り、「ブラボー!」と声を揃えました。

 その夜、「一生懸命」という日本語が母の好きな言葉だったのを思い出しました。母は憲法、平和、芸術、それぞれのために懸命に働く人たちに惹かれ、そういう人々を応援するのが母の生涯の仕事でした。母は「一生懸命」という言葉そのままの命を生きたのです。

 母は日本の憲法を「世界のモデル」と呼び、常にこう申していました。
「日本の人々はこの素晴らしい憲法と平和を、他の国の人々に教えなければならない。皆がそれをまねできるように」今日の会から始まる皆さまのこれからの努力こそが母への最高の贈り物です。母の志を受け継ぐ皆さまの努力に、そして未来の世代も女性の権利、人権、そして平和を守っていけるように、心から声援を送ります。

 ベアテの灰の一部は、日本にあります。生前、母の心と精神がいつもそうであったように、母の一部は日本の、富士山の見えるところに眠っています。

ニコル・ゴードン

*『ベアテさんの志を受け継ぐ会』(2013年5月10日東京)にて発表。
*2013年6月16日、習志野市9条の会連絡会の講演会で紺野美和子さんが紹介し、朗読。

習志野市9条の会連絡会でベアテさんについて講演会

2013.06.16.00:29

ベアテさん講演
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